愛を描く天才・小幡春生 〜その作品と人生〜

人間 小幡春生

1.少年時代


 春生は、幼いころから絵が好きで一年中絵を描いていた。特に似顔絵が得意で、大須賀村(後・大栄町、現・成田市)の村長や顔役の似顔絵を描いてお小遣いを貰うなど、ちゃっかりした面もあった。しかし、貧しい小幡家ではそれを春生少年の自由には使わせてくれなかった。絵を描いて得たお金は兄たちに取り上げられてしまい、春生少年はいつも不満を持っていた。



1)遠足


 春生はこんなエピソードを語っていた。

 「遠足で銚子の海へ行ったときに50銭の小遣いを持っていったんだよ。俺はみんなが50銭の小遣いだと思っていたんだ。途中で団子を買おうということになって、みんなに合わせて50銭全部団子を買っちゃったんだ。でも海に着いたら、ほかの奴らそばを食ったりしてるじゃないか。変だなと思って聞いてみたら、みんな1円、2円と持って来てたんだよなあ。俺だけ食べるものがないから、海へ行って若布を採って食べてたよ。あれは寂しかったなあ」

 こういった話はあちこちにある話で、取り立てて悲劇的な話ではない。しかし、こうした一つひとつのことが春生少年に、“現状から抜け出したい”という思いを深めさせていったことは想像に難くない。



2)奉公


 12歳の時には東京の八百屋、宮崎家へ奉公に出されることになったが春生はそれを喜んだ。家にいても貧しいだけだったが東京へ行けば道が開けると考えたのだ。

 奉公生活は特に辛いものではなかったが、おなかが空いた。

3)似顔絵描き<瞬間記憶能力を生かして


 そこで春生は得意の似顔絵の技術を活かし、休みの日には上野公園へ出て、似顔絵を描いて売りはじめた。はじめは客も少なく「芋を持ってくるおばさんのリヤカーを押して芋を貰ったりしていたんだよ」(春生)と言っていた。

 しかし、次第に春生の似顔絵描きは人気を得た。それは“うまいから”というよりもその商売の方法が評判になったのだ。

 普通の似顔絵描きは長時間客を座らせて、その場で絵を完成させて渡す、という方法を取っていた。しかし春生は簡単なスケッチをするだけで客の住所を聞き、完成した絵を後から届けるという方法をとったのだ。

写真機を持たない春生になぜそんなことが出来たのか。
 どうやら春生は、“対象を一瞬見ただけで写真のように記憶し、3ヶ月間忘れない”という<瞬間記憶能力>を持っていたらしい。これが忙しい客の要求にマッチしたのだ。

 それで金を貯め、八百屋をやめて日本画の大家、河合玉堂の門を叩いた。



4)玉堂先生から“岩肌の表現”を、伊藤深水から“ぼかし”を盗んだ!


 玉堂に弟子入りしながら、春生は上野での「似顔絵描き」を続けていた。食うための金を稼がなければならなかったからだ。だがそのことを兄弟子に見られ、たった1週間で玉堂の門を追われることになる。玉堂先生の門下生としてふさわしくない行為だというのだ。
 この時代、絵を習うなどという行為はお金持ちの道楽であり、春生のような貧乏人のやることでは無かったのだ。もともと他の門下生とは肌が合うはずが無かった。

 このときを振り返って春生は、「玉堂先生からは岩肌の表現を盗んだ」と豪語していた。

 たった1週間でそんな高等技術を会得することが出来るものだろうか。しかし、結果を見ればそれを納得しないわけにはいかないだろう。
 また、「伊東深水からぼかしを盗んだんだよ」と言っていた。いつ盗んだのだろう。特別深水との交流があったようには思えないのだが。



5)陸軍中野学校


 そんな春生の元へも戦争の影が迫って来る。弱冠16歳の春生は何を思ったのだろう、自ら陸軍中野学校へ入っている。「実は右翼に無理やり連れて行かれたんだ」(春生)とも言っていたが。そこで中国語を習得。

 戦時中、民間人の画家として中国へ渡るが、その語学力を活かし軍の活動を担っていた。このことが、抑留時にスパイ容疑を掛けられることにつながって行く。