大須賀村(後、大栄町になり、現在は成田市)に生まれた小幡春生にとって成田山新勝寺は故郷の名刹である。しかも新勝寺の本尊は不動明王。小幡春生も仏教に深く傾倒し仏画を描く成田の画家である。そして不動明王は、ハルピン抑留時代に春生を拷問から救い出し、画家としての道を開いてくれた神である。成田山への思いは強かった。新勝寺も春生を大切にしていた。ごく自然に春生と新勝寺の関係は強いものとなっ
た。
もし、春生の偏狭な性癖がもう少し軽かったら春生はもっと幸せな人生を送れたに違いない。
1.「成田山御開帳慶祝」小幡春生美術展
1)140点余りを展示して
平成10年の「成田山新勝寺御開帳1050年祭」の記念事業として「小幡春生美術展」が平成10年6月~7月にかけて3週間にわたって開催された。
「『御開帳1050年記念祭』は3年前から準備を進めてきたんです。それなのに1ヶ月前になってこの美術展の話が持ち上がり、『これだけ優れた郷土の画家がいるんだからぜひやろう』ということで急に決まったんです。特に当時の橋本寺務長(現橋本照稔大僧正)のご尽力が大きかったですね」(八城氏)
これまで春生を後援してきた久保木氏や大栄町助役の八城氏の尽力も有ってこの展覧会は実現を見ることができた。
成田山では光輪閣(客殿)、寺宝堂(寺の宝物を見せるところ)、第二講堂(大護摩を焚いた人たちが接待を受ける場所)などの、壁面160mを使って140点余の作品を展示した。
この展示作品は、カメラマン荒籾英正氏によって民話画を除く全点が撮影された。今回、この資料に収録された作品はこの写真を元にしている。
この荒籾氏は萱葺き民家を撮る写真家として知られている。春生は、こうした貴重な、というか奇特な方々の支援で画家としての一生を歩んでこられたのである。
また、春生の作品に惚れ込み、たくさんの絵を買い求めて経済的に支援した八千代市の篤志家・大井氏の存在は決して疎かにできない。
2)自画像から見てください
この美術展にかける春生の情熱も大きなものが有った。春生は独特の展示方法を採った。
「春生は自画像を最初に持ってくるんです。まず、この絵の作者はこんな男だ、ということを見せるんですね。若年、中年、壮年、老年、そして将来の自画像。お客様を自分でお出迎えするんですね。それから鳥獣戯画、河童やお化け、民話画、仏画という風にだんだん真面目なものを見ていただく、という格好ですね」(八城氏)
最初に自画像でびっくりしていただく。そしてリラックスできる作品、最後は仏画で敬虔な気持ちになっていただく。悪くないストーリーだろう。
この美術展は、春生にとって集大成とも言える個展だった。これまでに描き溜めた全てのジャンルの作品を一堂に展示することが出来、新勝寺を訪れた多くの善男善女に見てもらうことができたのだから。来館人数をカウントしていないが数万人に上るだろう。幸運なことだった。
3)不思議な出来事
この展覧会は普通の展覧会ではありえないような出来事が多く見られた。そのいくつかをご紹介しよう。
① 仏画の前で願掛けをする人が
仏画の前では手を合わせる人がたくさんいた。その方々の希望で仏画の前に香台を置き、毎日香を焚くことになった。そうなるとその仏画の前で願掛けを始める人が出てきた。
「お寺の本堂で願掛けをしてお賽銭を奉納し、仏画の前ではお団子を上げている人がいるんです」(八城氏)
仏画を仏様そのもののように思ったのだろう。春生の仏画にはそれだけの力がある。
② 戦争と平和画の前で線香を上げる人が
戦争と平和画の前では、自らの経験を思い起こしたのだろうか、「線香を上げたい」という人が現れた。この会場はお寺である。それも許された。
そして線香台を置くと線香を上げる人が続出したのだ。
美術品の前にお香やら線香やら、そんな展覧会は見たことも聞いたことも無い。
③ 龍を見て興奮して走り回る人が
その方は日本に住む中国人のようだった。龍の絵を見て興奮して叫びながら走り回り始めた。
「この龍は、私の好きだったお父さんが一番好きだった龍だ。私の父を天国へ連れて行った龍なんだ。私はこの龍と会いたかったんだ。これを待っていたんだ」と叫んで会場を走り回ったのだ。
中国人にとって龍は特別の存在である。尊敬の対象であり、恐れの対象であり、最高の存在である。中国人の心には誰にも理想の龍が棲んでいる。春生の龍はその理想の龍だったのだろう。
お香の香りに線香の匂い。どんな展覧会だろう。しかも龍を見て走り回る男がいる。
この会場に春生は毎日開館前に入り、閉館まで詰めていた。そして求める人にはどんな人にも丁寧に説明をしていた。一日も欠かさず。
そして、「求める人には河童のスケッチなどを描いてあげていました」(新勝寺の当時企画課長だった工藤氏)
春生にとって特別心を込めた個展であったのだろう。
4)最終日のトラブル
大きな盛り上がりを見せて開催されている「小幡春生美術展」の様子を耳にしながら、鶴見大僧正も、「私も行って戦争の犠牲者に弔いをしよう」と周囲に話していた。しかし、成田山にとっては1050年祭という大事業である。大僧正はあまりに忙しく、会場に足を運ぶ時間が取れなかった。
そのことに春生は不満だった。
①終了待ちかの入館者
最終日の終了時間ぎりぎりに数十人の客が入ってきた。普通であれば喜ぶべきことなのだが、今回は事情がある。新勝寺はその客の入館を断った。次の催しの時間が迫っていたために、早々に会場を整理し、片付けなければならなかったのだ。
するとそこに居合わせた春生は「俺の絵を見に来た客を追い返すとは何事か」と怒り出してしまった。おそらく春生は待っていた大僧正の来場が無かったことに内心忸怩たるものがあったのだろう。
最後の最後で小幡春生美術展は、鼻白むものとなってしまったのだった。
2.伝来図
これに続いて、成田山の由来を示す伝来図を春生に依頼する計画が進展していた。加えて4階大広間の障壁画の計画も進んでいた。
もし、これが完成していたら、春生の晩年は輝かしいものになっていたかもしれない。ところが、このころから春生の目に異常が出始めていた。視力の低下に加えて色について曖昧になってきたのだ。それでも数点のデッサンを描き上げ、さらに全ストーリーに取り組んでいたのだが、結局完成することが無かった。惜しいことである。
1)成田山の由来
成田山新勝寺には、御開帳に係わる由来がある。
このたび、1050年前を機に、本尊となる不動明王像が九十九里浜に上陸したときの様子を絵で綴ろうということになった。
「当時力を振るっていた平将門の力を抑えるために京都から不動明王をいただいたのです。その不動明王を横芝光町の一本松海岸にお迎えしました。そして公津の杜に安置しました。さらに薬師堂へ変座。この薬師堂は今の成田山の下り口にあります。それから現在のお堂に安置したのです。
これを20枚くらいの絵になるストーリーで描こうという構想だったのです。
まず、沖から来る不動明王を新勝寺の大僧正がかがり火を焚いて迎える図、次に横芝光町から公津の杜に安置の図までは描いたんです。ところがここで春生先生は新勝寺と大喧嘩をしてしまうんです。私の見るところでは春生先生の方が非常識だったようですね」(八城氏)
悪化していく視力に加えて、その偏狭さゆえに。惜しい。あまりに惜しい。
その力を認められながらも、たびたびトラブルを起こし自らの世界を小さくしてしまう春生。しかし、すでに仏の下に旅立ってしまった春生には新たにトラブルを起こす気配は無い。
今は、自らを画家たらしめてくれた不動明王に導かれて、初めて穏やかな心で永遠の旅を楽しんでいるに違いない。
小幡春生よ、安らかであれかし。
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