1.仏画ワールド
仏画は多くの日本画家が描いています。日本人の精神の根幹に根付いた、意識の底に鎮座している仏への憧憬は、当然多くの画家たちの取り組むテーマになっています。
上記の作品をご覧になっていかがでしたか。多くの作家たちが、仏を絵画表現として“作品”に仕立て上げているのに対して、小幡春生は純粋に仏を再現しようとしているかのように見えませんか。春生にとって仏画は作品であるというよりも、仏そのものであり、描き出した仏画はそのまま手を合わせる対象であるのです。
それは、春生自身の生い立ちからも考えられるのですが、滅びようとする自らの命を、心から仏にすがって生きていこうとする、純粋な信仰心に基づいているからなのです。
1)血で描いた壁画・不動明王(シベリア抑留、サマルカンドの牢獄で)
春生は、第2次世界大戦時には満州へ出兵、そして敗戦。ロシアによる抑留生活をハルピン、そしてウズベキスタンのサマルカンドで送ります。中国の最も北部、黒龍江省ハルピンは、シベリア抑留地として知られていますね。そこで春生はスパイの嫌疑をかけられ、サマルカンドへ送られます。その牢獄で連日の拷問を受けました。そして独房へ戻されると、拷問で受けた傷から出る自らの血で牢獄の壁に不動明王の絵を描いたのです。いつ死ぬかもしれない自らの魂の救いを求めて。
それは、当然のことに見るものに感動を与えます。
たちまち「抑留者小幡は良い絵を描く」という噂になり、抑留所の看守長より肖像画の依頼を受けることになりました。そして上官にも依頼され、さらに政治家たちの肖像画も描くことになり、苦痛の拷問生活から抜け出すことが出来たのです。
その後はロシアのレーピン美術館で、所蔵されている多くの作品を模写する仕事を与えられ、春生は絵の実力をつける貴重な体験を得ることになりました。
また、後にはモスクワ大学で学生に絵を教えることもありました。
ハルピンから帰ることの出来なかった人は少なくないとの話も聞きましたが、まさに不動明王によって命を救われたのです。
不動明王は魔と闘い、煩悩を抱えた救いがたい衆生を力づくで救うために憤怒の形相をしています。しかし、その心は慈悲に満ちた仏の心なのです。
春生のその後の生き方の中に、あたかもその不動明王を思わせるような事柄がたくさんあるのはここに由来しているのかもしれません。
2)ダライラマへプレゼント・地蔵菩薩
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩する人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ救う、といわれる地蔵菩薩。穏やかな顔で立ち、接するものを心から安らげてくれる。春生の激しい気性からは想像しにくいのですが、地蔵菩薩も春生の仏画によく描かれます。春生は確かにそういう一面も持っているのです。
たとえば、成田山新勝寺の鶴見照硯大僧正がチベットへダライラマを訪問した際には、大僧正に託して地蔵菩薩の絵画を寄贈しています。
3)阪神大震災の犠牲者に鎮魂の祈りをこめて
龍上観音。この作品は春生の最高傑作のひとつでしょう。春生はこの仏画を特別の気持ちで描き上げています。
「1995年1月の阪神大震災の惨状を見て、『若ければ現地へ行って震災の絵を描きたいのだが、この老体では、心を入れた供養する絵を描くしかない。人間は雲に乗って天国へ行くのだ』と言い、『かわいそうだなあ、かわいそうだなあ』とつぶやきながら、震災で亡くなった犠牲者の方々のためにと龍上の観音様を描いていました」(長男・小幡龍生氏)
この作品は神戸市へ寄贈されたのだが、今はその所在が不明のままです。
「NHKの横浜支局を通して寄贈したのです。小幡先生が直接渡したのですが、どこへ行ってしまったのでしょう。もっとも、額装せずに丸めて筒に入れて渡したということなので、どこかに紛れ込んでしまったのでしょうか。産経新聞の記事に載っているのを見たという話も聞くので、神戸市へ手渡されてはいるのでしょう。その後神戸市から何の連絡も無いのです。おそらく観音様は犠牲になった方々の霊を連れて、雲に乗って天国へ行ってしまったのでしょう」(春生の友人・元大栄町助役・八城勝利氏)
そして春生はもう一枚同じモチーフで描いていて、それはいま見ることが出来ます。
4)自らが救われたかった
千手観音は観音の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一つでもあります。千本の手のそれぞれの掌に一眼を持ち、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の広大な慈悲の力。春生はそれを絵画で実現しようとしていたのかもしれません。
春生の仏画は、己をも含む人間の苦しみを救うために描いているかのようなのです。
だから、春生は仏画を自分の作品にしてしまわないのです。あくまでも仏様の力をそのまま借りて、あたかも突き動かされるかのようにして、ありのままに描いています。春生は、宗教心を奥深くから湧き出てくるように持ち合わせているのですが、宗派を考えることは無いのです。ただただ純粋に仏様を信じているのです。その純粋さが仏画に命を与えているのです。
そしてその目的は“自らが救われたかった”のだと思います。ハルピンでの拷問生活。ただただ救われたく、また“いつ死んでも良いように”と思いつつ不動明王を牢獄の壁に描いたように。春生の仏画の出自はそこにあるような気がしてなりません。
この千手観音画像は、織田信長による比叡山焼き討ちの際に若干の焼け焦げは作ったが生き残り、現在はアメリカのボストン美術館に所蔵されています。その千手観音画像の修復を依頼されたときに模写したものです。
「1976年頃に、損傷の激しい仏画の修復の依頼が日本政府にあったんですね。このとき当時の坂田文部大臣から父・春生に修復の依頼があったんです。肖像画を描いたときのよしみでしょうか」(長男・小幡龍生氏)
この模写は焼き討ちの際に出来た焦げ跡までそのまま表現しています。一切勝手に手を加えることを拒否しているのです。
これだけの大作を春生は2枚描いています。一枚は絹本に金箔の裏打ちをしたもの(香取神宮所蔵)と、一枚はプラチナ箔で裏打ちしたもの(個人所蔵)の2枚を完成させています。
一枚に半年を掛けて描いているのです。
5)輪袈裟を授与されて
春生は梵字も書き、仏画をこれだけに描けるということは深く仏教を学んだ証拠と評価されていました。そして成田山新勝寺から、修行を積んだ信徒にのみ与えられる輪袈裟を授与されたのです。大僧正自らの手で春生の首に“輪袈裟”を掛けられたとき、春生は何を思っていたのでしょうか。 春生の仏画は、ハルピン抑留時代から春生の血となり精神となり、春生を画家という道から逸らすことなく作り上げていく道標となっていたように感じられるのです。
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