作品探訪
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4.民話画ワールド
春生は変人とも言える激しい性格を持っていたが、それと同じくらいに弱いものに対する優しさを併せ持っていた。その心は民話をテーマにした作品に取り組む行動へと発展して行った。特に郷里である下総の民話に心を寄せ、多くの作品を発表している。
1)「横浜の民話」
① 47枚の民話画
昭和46年ころには、横浜市の教育委員会の依頼により「横浜の民話画」を描いている。「PTA横浜」という機関誌に47回、およそ8年間にわたり連載したもので、昭和62年には、一冊にまとめたものが「横浜の民話集」として発行されている。
さらに成田空港の建設により失われた地域、北総の民話集を、成田空港の協力も得て作る計画もあった。しかし空港側との折り合いがつかず、計画のみで終わってしまったことは残念だった。
春生はさらに民話への思いを強め、千葉の歴史研究家、久保木良氏にストーリーの執筆を求めた。誰にも描けない温かい民話画を描きたいという思いを持っていたが、実現しないうちに鬼籍に入ってしまった。惜しまれるところである。
2)「下総の民話」
①優しい子供の顔
春生の優しさは、しかしかなりナショナリズムである。世界人類を救う、などという大仰なものではない。本当に身近な、自分の郷里やそこに生活する人々を、その生活を愛するのである。
本来人間の愛はそういうものではないだろうか。心から慈しみ、その全部を受け入れながら愛することの出来るのは、自分の身の回りの人々だけではないだろうか。それを自分の生まれた郷里への愛にまで広げていることは評価して良いだろう。
春生は仏様ではない。仏様に救われたい人間である。そういう意味で嘘の無い、赤裸々な人間だったと言える。
春生の民話画は、穏やかな画面が多い。言い伝えられたストーリーをやわらかな筆致で描き上げている。特に子供の顔は優しい。
3)民話への思い
①故郷を思う気持ちが
春生の民話に対する情熱はどこから来ているのだろう。少年時代の貧しい生活の中で、大須賀村の寒村で似顔絵を描きながら長老たちに昔話を聞かされていたのだろうか。あるいは空腹を抱えたまま村中を歩いて絵を描きながら、さまざまに空想を掻き立てていたのだろうか。
春生の描く河童やお化けの絵を見ているといかにもリアルであり、滑稽である。これは実際に見ているのではないか、と思わせられると同時に、河童やお化けに対する愛情というか、一緒に楽しんでいるかのような雰囲気にさせられる。
しかし、私には思われる。春生は親に捨てられるようにして故郷を後にした。そして再び親元へ帰ることが無かった。そのことを考えると故郷や親に対する愛情が無くなっていたかのように見える。だが、実は春生の心には故郷や親に対する抜き差しならない愛着があったのだ。
その故郷は成田空港の建設によってほとんど失われてしまった。
「春生先生はよく、温故知新、ということを言っていました。『親が有って自分があるんだ』、とも言っていました」(八城氏)
意外とも言える春生のこの言葉は、実は春生の根深い望郷の思いを示している。それが画家として“民話”を描く、ということに昇華して行ったに違いない。
②民話への思いを未完にして
晩年になるほどその思いが強くなり、喜寿を過ぎたころから「北総の民話集を作りたい」とたびたび語るようになり、郷土の歴史研究家、久保木良氏に頼み込んでいる。
「俺は、“これが民話だ”という民話画を描きたい。俺しか描けない民話画を描きたいんだ。先生、北総民話集のストーリーを書いてください。時代考証しながら絵は俺が描くから」(春生)と。
しかし、その願いは完成することなく終わった。実に惜しまれるところである。
また春生は「日本の民話100選」を描こうという構想も持っていたようだ。
今後民話にこれほどの情熱を持つ画家が現れることはあるだろうか。
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